橿原神宮/日本開闢の聖地・神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛・神武天皇陵・アクセス情報!

橿原神宮令和6年紀元節

 今年(令和6年)は、「紀元二千二十四年」ですね。「紀元二千六百二十四年」というのは、初代天皇の神武天皇がご即位された辛酉(しんゆう)の年(紀元前660年)の元日(現在の暦に直すと2月11日)を起点とした年代の記載法です。神武天皇とその皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)をお祀りする、橿原神宮にこの高札が掛かっています。ご即位の日の2月11日は、現在でも建国記念の日(旧紀元節)として、日本の祝日とされています。ギネスには、「世界最古の王家」として天皇家が認定されています。世界最古の王家=世界最古の国家とは、単純にはいきませんが、「日本が現存する世界で最も古い国の一つである。」というのは確かなようです。

橿原神宮(日本開闢の聖地)

創建

 近鉄「橿原神宮前」駅の中央口から徒歩10分、「橿原神宮」があります。「橿原神宮」は、初代天皇である神武天皇の即位地として比定された畝傍山(大和三山)東南の橿原宮に、1890年(明治23年)に創建されました。本殿には、京都御所内の天照大神がお祀りされていた内侍所(賢所){ないしどころ(かしこどころ)}が、拝殿には、新嘗祭が執り行われていた神嘉殿(しんかでん)が、移築されております。

紀元祭(旧紀元節)

紀元祭(2月11日)の東京からの勅使
紀元祭(2月11日)の東京からの勅使

 毎年、ご即位の日の2月11日に行われる紀元祭には、東京からも勅使が訪れ、盛大な儀式が執り行われています。全国の神社も、この日は橿原神宮に向かって遥拝をするようです。歴史的には新しい神社となりますが、古代から神聖視されてきた場所に創建されていることもあり、「聖地」の雰囲気が醸し出されています。1940年(昭和15年)には、紀元二千六百年として、国を挙げての行事が執り行われました。16年後の紀元二千七百年にも、盛大な行事がなされることでしょう。

 令和6年度の紀元節も、無事執り行われました。暫くコロナで、一般の方は参拝制限があったのですが、今年は久々にそれが撤廃されて、沢山の崇敬者の皆さんがお祝いに来られていました。荘厳なムードの中、東京から勅使の方が見えられる瞬間は、いつもドキドキしてしまいます。「十六菊花紋」が、とても煌びやかに映えていました。

神武天皇(神日本磐余彦尊:かむやまといわれびこのみこと)

紹介

漢風
諡号
神武天皇(じんむてんのう)
和風
諡号
神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこすめらみこと)
在位神武天皇元年1月1日 ~ 神武天皇76年3月11日
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
玉依姫(たまよりひめ)
五瀬命(いつせのみこと、長男)、稲飯命(いないのみこと、次男)、三毛入野命(みけいりののみこと、三男)
吾平津媛(あひらつひめ・日向国)
媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ・大和国)
手研耳命(たぎしみみのみこと、吾平津媛との子)
神八井耳命(かむやいみみのみこと)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと、後の綏靖天皇)
日子八井命(ひこやいのみこと、『古事記』のみ)
ご利益開運招福、健康延寿

略歴

 神武天皇は、天津神の父と海神の母との間に、日向(宮崎)にてお生まれになられました。45歳の時に、日向から大和へと東征し、戦いの中で3人の兄を失う等、大変な苦難に見舞われました。途中、八咫烏(やたがらす)等の助力があり、ついに大和を平定することができました。そして、橿原の地(橿原宮)で紀元前660年に即位されることとなります。その後、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后にお迎えして、127歳で天寿を全うされます。御利益の「開運招福」、「健康延寿」は、これらに因んだものとなっています。

畝傍山と橿原宮

畝傍山登山口案内板
畝傍山登山口案内板(橿原神宮)

 即位地付近の畝傍山では、夏至の太陽は三輪山から昇り、二上山と信貴山の間の住吉大社へと沈んでいくのが見えます。冬至の太陽は竜門岳から昇り、葛城山へ沈んでいくのが見えます。皇室の太陽信仰の萌芽が感じられます。『日本書紀(巻三)』には、「六合之中心」(くにのもなか)と表現され、この地が、当時から日本の中心地として、尊ばれてきたと考えられます。(「八紘一宇」も、ここが出典です)また、畝傍山は、北緯34度30分に位置しております。このライン上には、、歴代の古代中国の帝都が並んでおり、測量等の技術的にも不思議なことなのですが、こんなところにも、何らかの「聖性」が感じられます。日本開闢(かいびゃく)の「聖地」の誕生です。

 即位地の「かしはらの宮」については、橿原神宮のある「橿原宮」の他にも、別に候補地があります。それは、お隣の御所市柏原にある「神武天皇社」です。「神武天皇社」の北側にある「本馬山」は、神武天皇が国見をした山として、『日本書紀(巻三)』(神武天皇三十一年四月乙酉朔条)に、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか=現在の本間山)として記載されています。国の形が、蜻蛉(あきづ=とんぼ)がお尻を輪にして、交尾する様に似ていることから、日本の別称である「秋津洲(あきづしま)」の名が起こりました。

秋津洲(あきづしま)の由来

 因みに、日本の別称については、『日本書紀(巻三)』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」、大己貴大神(おおなむちのおおかみ=大国主命)が「玉牆の内国(たまかきのうちつくに)、饒速日命(にぎはやひのみこと)が「空虚見つ日本の国(そらみつやまとのくに)」、神武天皇の「秋津洲(あきづしま)という変遷がまとめて出てきます。神武天皇以前にも、統一範囲は別として、日本の国を治めていた人がいたことを仄(ほの)めかしているようです。

 また、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)は、父親が出雲系の神である事代主神(大物主神)です。御所市は「出雲」と所縁が深い土地柄であり、古代には、多くの出雲系の人々が、暮らしていたと考えられています。同市には『高鴨神社』、『鴨都波神社』(どちらも事代主神がご祭神)等、出雲系の神々を祀る神社も点在しており、「出雲系」の興隆が伺えます。神武天皇が、皇后所縁の土地で即位するというのも、可能性がありそうです。 

古代天皇、ご長寿の秘密

 古代天皇の長寿については、この神武天皇をはじめ、実在性を疑う一つの根拠にもなっています。古代天皇の年齢ついては、「讖緯説に基づいている」等の諸説があります。『魏志倭人伝』(裴松之の注)には、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略に曰く其の俗正歳四節を知らず但春耕秋収を計って年紀となす)」との記述があり、当時の日本では、現在の1年を2年(「春耕~秋収」で1年、「秋収~春耕」で1年となり、半年で1年となる1年2倍暦)として数えていたと考えられます。この説を採用すると、神武天皇の127歳は、実際にはその半分の63.5歳になることがわかります。概ね21代の雄略天皇までが、これに該当するようです。

神武天皇、日向出身じゃない?

 上記のように、神武天皇は一般的には、「日向でお生まれになり、大和へ入られた」とされています。諸説(出雲系)の一つには、彼が「丹波でお生まれになり、大和へ入られた」というものもあります。その説によると、父は五十猛(いそたける)、母は穂屋姫(ほやひめ)であり、海村雲(あまのむらくも)という人物が、この神武天皇に比定されます。海村雲は丹波の海部氏の一族で、後に丹波から大和の葛城へ移住し、媛蹈鞴五十鈴媛を妻へ迎え、大和で大王になられたようです。葛城は御所、橿原とそれぞれ隣接しており、この説も魅力的です。

 一般的には、海村雲(天村雲)は、神武期の丹波の海部氏の一族で、父は天香語山(あめのかごやま、五十猛は出雲から、丹波へ移り天香語山と称した)で、尾張氏の祖とされています。(海村雲、神話に詳しい人であれば、「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」を思い出されたかもしれませんね?「天村雲剣=天叢雲剣=草薙剣」で三種の神器の一つとなっておりますが、この剣は海村雲が初代大王に就任した際、そのお祝いとして出雲王から送られた銅剣とされております。剣の命名の由来は、海村雲の名を取って、そう呼ばれたとされています。古代史に関しては、諸説入り乱れており、本当に興味が尽きませんね。 

媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ、初代皇后)

家系

 橿原神宮のもうお一人のご祭神は、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)です。父は事代主(大物主)(ことしろぬし・おおものぬし)、母は玉櫛媛(勢夜陀多良比売)(たまくしひめ・せやだらひめ)、兄は天日方奇日方(あめのひがたのくしひかた)です。母親の里である大阪の三島(現在の茨木市)におられました。茨木市五十鈴町には溝咋(みぞくい)神社があり、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)と母親の玉櫛媛(たまくしひめ)をお祀りしています。

命名のエピソード

 本来は、富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすずひめ、『古事記』)と、呼ばれていたようです。『古事記』には、「母親である勢夜陀多良比売(せやだらひめ)が、溝で用を足していた際、丹塗矢(にぬりや、実は大物主の神が朱色の矢に化けたもの)が飛んできて、彼女の陰部(ほと)を突きました。その後、二人は結婚して、富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすずひめ)が生まれました。」という、エピソードが載せられています。お名前の「富登(ほと)」が陰部を表すため、「比売(ひめ)多多良伊須気余理比売(いすけよりひめ)」へと、変更されたとする説があります。

別名の考察

 私的には、「富登」は、父親の出身王家である出雲の「富家(とびけ)→後の登美家(とびけ)」を、表していると考えています。奈良県内には、神武天皇に関わる地名でも、鳥見山(とみやま・神武天皇が皇祖神・天神を祀った場所で、大嘗祭の起源、勝利のきっかけである金鵄(きんし=金色のとび)が舞い降りたとされる)、等彌(とみ)神社(桜井市)等が見受けられ、妻の出身家との関連性も示唆されます。古代王権の特性としては、祭政一致を重視する傾向があります。神武天皇は、「政事」(まつりごと)を的確に掌握するためにも、媛蹈鞴五十鈴媛の出雲登美王家の巫女的血脈である「祭事」(まつりごと)の力を必要としたのではないでしょうか?

東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)

東大谷日女命神社
東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)

 
 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)は、この橿原神宮だけでなく、そこから、畝傍山登山道へ向かう途中にある「東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)」にも祀られています。元々は伊弉冉神(いざなみのかみ)をお祀りしていたらしいのですが、その後の神功皇后(じんぐうこうごう)を経て、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたららいすずひめ)へ変更されたそうです。橿原神宮から少し離れているため、静かな佇まいの神社となります。地元の方の崇敬も熱いようで、きれいに清掃されておりました。入口には「庚申石」もあり、古くからの信仰が伺えます。

神武天皇陵(畝傍山東北陵)参拝

いざ、神武天皇陵へ

橿原考古学研究所附属博物館内展示物(土偶)
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館内展示物(土偶)

 神武天皇の陵墓については、『日本書紀(巻3)』に「畝傍山東北陵に葬る(うねびやまのうしとらのすみのみささぎにかくしまつる)」との記載があり、「橿原神宮」の北東にある、「神武天皇陵」に比定されています。近鉄「畝傍御陵前」駅が最寄り駅となります。駅から「御陵」までの道中には、考古学ファン垂涎の「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」もありますので、こちらにもぜひお立ち寄り下さい。(館内の展示物は一部を除いて写真撮影も可能です。この投稿の最後にご案内しています。)

神武天皇陵の所在地は?

 幕末の「尊王攘夷」の風が吹き荒れる中、初代天皇の御陵を巡っては、様々な説がありました。『古事記伝』の本居宣長をはじめ、『山陵志』の蒲生君平、『神武御陵考』の川路聖謨等が、歴史上の有名人が比定地について論じています。「塚山」を初めとして、最終的には「神武田(ミサンサイ)」と「丸山」の二つが有力候補となりました。

神武天皇御陵
神武天皇陵(畝傍山東北陵)

 幕末の孝明天皇は、これらの意見を踏まえ、「神武田(ミサンサイ)」を「神武天皇陵」として、現在に至ります。これを受けて、文久3年11月28日には、陵墓の修陵が完了しました。『文久山稜図(鶴沢探真画)』(宮内庁書陵部所蔵)には、幕末当時の陵墓のbefore(二つの小丘)→after(下記現在の御陵参照)の様子が残されています。現行の「神武天皇陵」の隣には、「宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所」があり、資料等頂けますので(事前連絡が無難)、ぜひこちらにもお立ち寄り下さいね。(この投稿の最後にご案内しています。)

 「橿原神宮」は、誰もいないことは珍しいのですが、この「神武天皇陵」は、足を向ける方が少ないためか、誰もいないこともしばしばあります。ここでは、落ち着いて、じっくりと対面することが出来、新たな思いを頂くことが可能です。

橿原神宮、神武天皇陵へのアクセス情報

橿原神宮へのアクセス

634-8550
所在地奈良県橿原市久米町934
TEL0744-22-3271
FAX0744-24-7720
受付時間午前9時~午後4時
開門時間午前6時半(季節により、これより早く開門します)
閉門時間午後5時(季節により、これより遅く閉門します)

(鉄道)

橿原神宮前駅
近鉄橿原神宮前駅中央口

〇近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線、橿原線「橿原神宮前」駅下車、中央改札口から徒歩10分
・「大阪阿倍野橋」駅(近鉄)から、急行約40分
・「大阪上本町」駅(近鉄)から、急行約45分
 「大和八木」駅で乗り換えあり。
・「京都」駅(近鉄)から、急行約1時間20分
*両区間とも、「特急」利用可能(別途、特急券の購入必要)

(お車)

〇大阪方面より
・大阪市内→松原JCT(阪神高速14号松原線)→三原JCT(阪和道)→葛城IC(南阪奈道路)→四条ランプ直進(大和高田バイパス)→四条町右折(県道国道161号線)→橿原神宮へ

〇京都方面より
・京都市内(国道24号線)→城陽IC(京奈和自動車道)→木津IC(奈良バイパス)→郡山(橿原バイパス)→橿原北IC直進(国道24号線)→新堂ランプ左折→雲梯(うなて)直進(大和高田バイパス)→四条ランプ直進(大和高田バイパス)→四条町右折(県道国道161号線)→橿原神宮へ

〇名古屋方面より
・名古屋市内(名古屋高速5号万場線)→名古屋西JCT(東名阪自動車道)→亀山IC(名阪国道25号線)→天理IC(西名阪自動車道)→郡山IC(橿原バイパス)→橿原北IC直進(国道24号線)→新堂ランプ左折→雲梯(うなて)直進(大和高田バイパス)→四条ランプ直進(大和高田バイパス)→四条町右折(県道国道161号線)→橿原神宮へ

*駐車場は、橿原神宮の有料駐車場(1日:普通車500円、中型車1,000円、大型車2,000円)をご利用下さい。

神武天皇陵(畝傍山東北陵)へのアクセス

所在地奈良県橿原市大久保町
お問い合わせ宮内庁書陵部畝傍管区事務所
TEL:0744-22-3338
御陵URL(宮内庁)https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/index.html

(鉄道)

〇近畿日本鉄道(近鉄)橿原線「畝傍御陵前」駅、改札左手の階段から、徒歩約10分
・「大阪阿倍野橋」駅(近鉄)から、急行約42分
 「橿原神宮前」駅で乗り換えがあり。
・「大阪上本町」駅(近鉄)から、急行約45分
 「大和八木」駅で乗り換えあり。
・「京都」駅(近鉄)から、急行約1時間20分
*京都方面からは、「橿原神宮前」駅の一つ手前の駅となります。(急行は停車しますが、特急は停車しません。
*畝傍御陵前駅から、神武天皇陵までの間に、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館もあります。(下記参照)

(お車)

 上記の橿原神宮をご参照下さい。御陵にも駐車場はあるのですが、閉鎖されていることも多いため、橿原神宮へ停車され、御陵まで徒歩で行かれるのをお勧めします。(橿原神宮からは、概ね徒歩15分くらいです)

橿原考古学研究所附属博物館へのアクセス

634-0065
所在地奈良県橿原市畝傍町50-2
TEL0744-24-1185
FAX0744-24-1355
開館時間午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日月曜日(祝日の場合は、翌火曜日に休館)
年末年始(12月28日から1月4日)
*臨時休館もあるため、ご注意を!
入館料・大人 400円
・学生(大・高校生)300円
・小人(中・小学生)200円
*特別展開催中は、特別展入館料に変更
博物館HP(URL)https://www.kashikoken.jp/museum/index.html

(鉄道)

神武天皇陵をご参照下さい。最寄り駅は「畝傍御陵前」です。

(お車)

上記、橿原神宮をご参照下さい。博物館前にも駐車場(無料)がございます。(橿原神宮有料駐車場に停車して頂き、徒歩で行かれても大丈夫です)

まとめ

 「日本開闢の聖地」ということで、橿原神宮を選んでみました。この辺りは、縄文遺跡(橿原遺跡)や神武天皇陵等の天皇陵、大和三山、藤原京等、古代の息吹が感じられます。このような「聖地」で、オフサイト・ミーティング、ワーク・ショップなんか、お勧めです。合間に、神社参拝、鎮守の森で森林浴で、「閃き」降臨です。比較的アクセスも良いので、初心者さんにも優しい場所です。

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